忘れられない言葉と風景 その1

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wasurerarenai

あゆみの家を運営する法人の役員でもある所長に
この仕事に対する思いや職員に伝えたいことを聞きました。

所長は、いつ頃から障害者福祉の仕事をしているんですか?

仕事で関わるようになって20年くら いですが、その前に20年くらいボランティアとして関わっていました。最初の関わりは、田舎から東京に上京した大学生の時です。

なぜボランティア活動を始めたんですか?

当時、目黒区に住んでいて奨学生として新聞配達をしていましたが、田舎者だったので東京の生活になじめなくて5月病になってしまいました。
親には何かと苦労をかけてきたので田舎に逃げ帰るわけにもいかないし、大学は休んでばかりで友人もできなかったので途方に暮れていました。 そんな時、新聞配達の途中で障害児が公園の砂場でいじめられている姿を目撃しました。自分のためにがんばる気力はなかったのですが、

「あの子のために何かしたい」

という気力がわいてきました。
そこで近所の心障学級を訪ねて

「何かお手伝いがしたい」

とお願いしました。教員を目指していたわけでもないのですが、定年間近の担任の先生は

「私は歳だから子供たちと遊んでくれる学生さんはありがたい。すぐに来てもらっていいですよ」

と歓迎してくれました。

昔の学校はずいぶん開放的だったんですね。その学校でどんな障害を持つ子供たちに出会ったんですか。

40年も前のことですが、当時の子供たちの顔や名前は今でも覚えています。
中軽度の知的障害の子が中心で自閉症の子や今なら発達障害の子もいました。
週2、3日、午前中に学校に行って授業の手伝いや休み時間に校庭で子供たちももの珍しげに集まってきて、ケンイチ君は

「僕たちの先生だ!」

とスーパーヒーローが現れたように自慢していました。
ユウジ君は私の耳元で

「先生がいるからもういじめられないよ」

とうれしそうに言いました。

子供たちにうけたのは、肩車や背中を使った滑り台、両手をつないで体を回すジャイアント・スイングでした。マモル君は言葉の発語がない自閉症児でしたが、超肥満体だったのでお母さんは腰痛に悩まされていました。ある日、マモル君が自分から私の両手を握り強く引きました。ジャイアント・スイングを始めるとお腹の底から雄たけびをあげるように大きな声で

「ウォー、ウォー」

と叫びました。サトル君は「声が出た!声が出た!」と飛び跳ねています。

「偶然、お母さんがその光景を見ていて、うれしくて泣いていたそうだよ。いつも“ 疲れた、疲れた ”が口癖のお母さんだから本当にうれしかったんだね」

と後日、先生から聞きました。

サトル君は、お父さんが昔、紙芝居屋さんだっただけあって、お人好しで面倒見のいい子でした。マモル君が不機嫌になって大の字に寝てしまったり、他の子がパニックになると真っ先に駆け寄って諭したり、励まして、時には一緒に泣きべそをかく子でした。マモル君には何度もどつかれ、パンチを浴びていましたが、涙を流しながらニコニコと諭している光景をよく見かけました。そんな光景に幾度となく心が揺さぶられました。

リエちゃんは、弟も同じ心障学級でしたが、お母さんが病気がちだったので母親代わりのように振る舞って、年下の子は誰でも我が子のように面倒を見ていました。みんな、とても個性的で心優しい愉快な子供たちでした。

そういう体験を通じて将来は障害者福祉の仕事をしたいと思うようになったんですか?

それは考えませでした。子供たちに会うと生き生きしていたけれど、それ以外の場では廃人みたいだったから…。そこで1日でも多く会いたいと思って土日に公園に子供たちを集めて遊ぶことにしました。ある日、家まで子供たちを送り届けた時に

「あなたの卒業後に子供が寂しがるだろうなあ」

という親御さんの話を聞いて、大学内に障害児を応援するサークルを作ることにしました。

そのおかげで私も大学に通うようになって友人や仲間もできて、一人ではできなかったこともできるようになりました。子供たちを動物園や飛行場に連れ出したり、クリスマス会等のイベントもできるようになりました。

偶然かもしれませんが、障害児や家族は、他の家庭に比べて厳しい環境に置かれていました。ひとり親家庭、失業や貧困、いじめ、親類縁者や地域での孤立など、自助や自己責任で解決できないことばかりです。

私は、大学では相変わらず落ちこぼれ状態でしたが、もう少し障害者福祉のことを勉強しようと思って、サークルのことは後輩に任せて身体障害者の現場にも足を運ぶことにしました。

友人の紹介で訪問したのは、重度・重症の障害者の入所施設で1カ所は府中療育センター、もう1カ所は多摩更生園でいずれも成人の入所施設でした。それまでは子供たちを相手に癒されたり、元気をもらうという感じでしたが、重度・重症の施設を訪問することになって「福祉」の問題というよりも「差別」や「自 立」「人権」「生きる」とは何かを根源から考えざるを得なくなりました。(そこで出会った人たちのことや法人立ち上げの話は次号で紹介します。)

学校卒業後のサトル君と再会。

サークルは、私が卒業後も20年近く続きましたが、子供たちが、今、どんな生活をしているのかはわかりません。私が就職して3年目頃にサトル君が生活保護施設に入っているという話を聞いて訪ねたことがあります。

私は、サトル君の底抜けに明るい笑顔を思い浮べて再会が本当に楽しみでした。部屋に入るとサトル君は、壁に向かって 黙々とボールを転がしていました。18歳くらいになって体はすっかり大人でした。

「サトル、矢沢先生だよ。」

とお母さんが言っても反応はありません。
ボールが脇にそれた際に私の方を振り向きましたが、昔の面影があったものの能面のように無表情でした。私は、どんな言葉をかけたらいいのか思い浮かびませんでした。
昔話をしてもお母さんの「そうでしたか」というつぶやきが返るだけで会話になりません。
結局、15分ほどで帰ることにしました。
玄関で

「もう来ないで下さい」

とお母さんが申し訳なさそうに言いました。

卒業後も支援が続くように…ということでサークルを作ったのですが成人になっても支援が続く仕組みを作ることはできませんでした。

「私にとっては人生の大恩人のこの子供たちのために何もできなかったけれど、いつの日か、ライフステージに応じて支援が継続できる仕組みや団体ができたらいいな…」

と願わずにいられませんでした。

(次号へ続く…)