忘れられない言葉と風景 その2

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あゆみの家の所長に「この仕事に対する忘れられない思いや職員に伝えておきたいこと」を聞く、
シリーズ第2回。

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大学の卒業間近になって重度の身体障害者の人達との関わりが始まって「差別」や「人権」について考えさせられたということですが、具体的に何かあったのですか?

特別な出来事があったわけではありません。当時、特に障害が重い人たちが入所していた府中療育センターや多摩更生園を訪問したり、施設の外に連れ出して交流会を開いたり、旅行(合宿)をしました。私も若かったから「自分はこれからどう生きていったらいいのか」と悩んでいたので、本当にいろいろなことを考えさせられました。

府中療育センターのKさんとは、とても気が合いました。Kさんは花火職人の家庭に生まれ、出生時の事故で脳性マヒになりました。小中学校は就学免除となり30台半ばで父親が亡くなるまで全く家から出られない生活でした。本人は「座敷牢にいた。自分の年代の脳性マヒ者なら普通のこと」と言っていました。
父親の葬儀も親族の意向で出席を許されず、1か月後に母親がタクシーを呼んで家の周囲をゆっくり走りながら「ここが学校、あれが駅、ここがお父さんの花火工場だよ」と案内してくれたそうです。
そして、一歩も外に連れ出せなかったことを涙ながらに謝ったそうです。

多摩更生園で話が弾んだのは、横須賀出身のMさんです。
障害がなかったらハマのプレイボーイとして名をはせただろうと思わせるに十分なイケメンの兄貴で、その名も「ジョウジ」でした。実際、施設の中では、いつも最も派手な洋服で着飾って、若い女性職員を誘惑しては騒ぎを起こしていました。
Mさんも出生時に脳性マヒとなり、父親は米軍基地で働く米兵で、日本人の母親はクラブで働いていたそうです。
Mさんが生まれてすぐに父親はアメリカに帰国、彼が2歳の頃に母親は施設に彼を預けたまま音信不通になったそうです。
「だから、両親の顔も覚えていないし、家庭って何だかわからない。俺って、家族に捨てられた人間だから…」
と他人事のように話していました。

入所者には、それぞれの出生や治療、家族との別離の物語がありました。家庭や兄弟、故郷があるのが当たり前の生活をしてきた私には、驚きの連続で、何も知らないなりに、社会の理不尽さに強い憤りを感じました。それでも私たち学生が交流できたのは両施設で合計10人くらいの言葉による会話が可能な人たちでした。

年代としては1977年ですね。79年が国際障害者年のテーマを「完全参加と平等」に決めた年ですからその頃には「福祉のまちづくり」とか「自立生活」の言葉が登場してきたと思いますが、そういう動きは知りませんでしたか。

言葉としては聞いていましたが関心はありませんでした。
もっぱら「人はいかに生きるべきか」みたいなことに心を奪われていました。

高度経済成長を経て世界の経済大国の仲間入りをしたと浮かれている国で
「なぜ、生まれてきたことを後悔して、人権を虐げられても抗議したり、回復する手立てのない人たちが放置されてしまうのか、なぜ、多くの人たちは目を向けようとしないのか…」。
そんなことが関心の中心でした。「まず隗より始めよ!」で冬休みに田舎に帰ってから、親を啓蒙しようと思いました。すると「そんなことより、卒業できるのか。 卒業と就職を楽しみに仕送りをしてきたんだから、いいかげんにしろ」と一喝されてあえなく撃沈。しょんぼり東京に戻って親には申し訳なかったのですが3日で反省を忘れて、活動再開です。

養護学校義務化と青い芝の会

福祉制度には無関心でしたが、79年4月に始まる養護学校義務化には関心がありました。
Kさんの無学歴の悔しさを聞いていたので
「これで全ての障害者が学校に行けるから良かったね」
と話すと
「義務化は大反対だ」
と返事が返ってきました。

「僕らは、就学前は家で座敷牢に隔離され、成人になると人里離れた施設に隔離される。今度は義務化で障害別に通う学校に隔離される。これで隔離と差別が完成する。しかも、『障害に配慮して』、『本人の幸せのため』という美名のもとに一方的に押しつけられる。僕たち脳性マヒ者は、今までも生きたいという本人の意思と関係なく、無理心中や子殺しで親に殺されてきたんだ。」

義務化について調べてみると障害者団体も「長年の悲願が実現」と大歓迎の団体から断固反対の団体まであることがわかりました。
また、統合教育や共生教育についても様々な意見があることがわかりました。
どう考えるのが正しいのか、私にはわかりませんでしたが、Kさんも所属して義務化反対の急先鋒になっていた「青い芝の会」という脳性マヒ者の会のことをもっと知りたいと思い会員を紹介してもらいました。

いろいろな障害者団体がある中で、なぜ、青い芝の会のことが気になったのか、心当たりはありますか。

「三つ子の魂百までも」という諺がありますが、たぶん、私の幼児体験と関わっていると思います。
韓流ドラマによく出る出生の秘密とか、事故による家族の宿命。それほどのドラマではないけど、三人兄弟の次男でいたずらっ子の私は、4歳の時に昼間こっそり花火の火遊びをして実家と隣家2軒を全焼させてしまいました。
兄弟は親戚の家に預けられ、父親は本家の長男だったので事件の処理に苦労しました。
半年後に再び家族がそろった頃に、今度は、私の小学校入学に備えて大学病院に入院させることになりました。私が口蓋裂という障害があって言語障害がひどかったので、心配した両親は手術と言語訓練を受けさせることにしたのです。

子供心に
「自分は両親の人生をめちゃくちゃにした。兄弟にも肩身の狭い思いをさせている、自分は我が家の恥だ。勉強は嫌いだし何のとりえもない、なんで俺は生まれてきたのかな。兄弟げんかの原因もいつも俺だし、両親も俺のこと恨んでいるだろうな」
と、誰にも言えない秘密を抱えていました。後に障害者福祉をライフワークにしようと思ったのはこんな事情からだと思います。

Kさんの紹介で青い芝の会の会員が多く入所している東京久留米園を何度か訪問しました。
そこで俳句が趣味というSさんと親しくなって1年後には、ふたりで九州に3泊4日の旅行に行きましたが、24時間、4日間も一緒にいると介護は本当にしんどいし、重度障害者には、プライバシーはないに等しいという経験もしました。
Sさんには東京久留米園の会報をもらいましたが、会報『波紋』に次の一文が載っていました。
国際障害者以前の重度障害者の置かれていた状況や当事者の思いが綴られていると思うので転載します。

私は寝返りひとつできない第1級の障害者です。生まれは東京の下町で、母の胎内を出る時に頭を圧迫され、ひどい脳性マヒになってしまい、18歳まで家で寝たきりの生活でした。

私は、自分の足で歩きたい一心から病院生活を望み、脳性マヒにとられる治療は全て受けましたが、手足は私のものとして動くことはありませんでした。しかし、病院生活で知らない人や多くの人と話す機会を得て、それが言語訓練になって、今ではどんな人でも話ができる自信がつきました。

私たち重度の障害者は、入学年齢になっても一方的に就学免除にされて、学校に行くことが法律的に許されていないのです。私は、小学校すら行っていないということで大きな劣等感を持ち、普通の人と話せないことがありました。字が読めないので本を読むこともできず、自分の殻に閉じこもる一方です。言語障害で話せない、文字も読めないために脳性マヒというと文字どおり、白痴、低能、劣等者と見られています。懸命に力をふりしぼって話しても「なぁ~に?バカのいっていることはわからない」で終わってしまうのです。

私は、病院生活で人と人の関係づくりや生活感を教えられました。そして15歳ころから希望して、読み書きの勉強を教わることもできました。なぜ、私たち重度の障害者には勉強の機会を与えてくれないのでしょうか。

私は昨年、友達と電車を使ってキャンプに行きました。病院にいたころはこの体でキャンプをするなんて考えられませんでした。いろいろと不便なこともあったので不満を言ったらきりがありませんが、とてもいい思い出ができました。でも、昔はひどいものでした。

車イスで表にでかけると、何か化け物がきたような冷たい視線をあびました。子どもに「あの人のそばに行ってはダメよ、病気がうつるから…」という親の言葉にどんな意味があるのか、大きなショックを受けました。脳性マヒは伝染病ではありません。この気持ちをどこに持って行ったらいいのでしょうか。

私は思春期になると親や兄弟を恨みました。兄弟は何でもない体を持ち、何でもない口を持っています。そして普通に学校に行き、卒業すれば働き、女性の場合は花嫁修業をして結婚生活を夢見るのです。中には重度の障害者でも学校に通い、結婚できる恵まれた人もいます。でも、そういう人は本当にまれです。

私たちも一応、夢や希望は持っています。何歳になったら何をしたいとか目標はあるのです。でも、それは流れる時の方が多いです。と、言っても私は生活に変化を持たせなければと思って、昨年からタイプの練習をはじめました。タイプは英字で打ちますが、私は、ABCが全く読めないし、ローマ字にする方法もわかりませんでした。私は口に棒を加えて打ちますが、普通のタイプでは打てないので電動タイプを使います。でも、電動タイプは高額で私には買えません。今は、施設に寄付されたものを借りています。寄付がなかったらこの文章も残せないし、手紙も日記も書けません。ひとりの人間として生きた足跡も残せない。なぜ、最低限の人並みの生活が、私たち重度障害者には許されないのでしょうか。

それで結局、大学は卒業したんですか。 新宿の障害者団体への参加や法人設立は、どんな風に始まったんですか?

それを伝えるために書き始めたはずだけど、前置きが長くなってしまって。 その話は次回に…ごめんなさい。