忘れられない言葉と風景 その3

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あゆみの家の所長に「この仕事に対する 忘れられない 思いや職員に伝えておきたいこと」を聞く、
シリーズ第3回。
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新宿の障害者団体や福祉との関係は、どんなふうに始まりましたか?

新宿区障害者団体連絡会の会長をしていて、障害者福祉協会の理事でもある井口さんのことは、新宿の障害者福祉関係者なら誰でも知っていると思いますが、私が井口さんと知り合ったのは大学を留年した1年目です。

府中療育センターや多摩更生園を訪問して、バイトや大学に近い距離の所で成人の障害者や重度の障害者のことをもう少し知りたいと思っていた頃に「こんな人が大学のそばで活動しているから」と後輩から紹介されて、会ってみることにしました。後輩が活動していたその会の名前は「新宿身障明るい街づくりの会」と聞いていたので新宿を活動エリアにしていることや身体障害者の人たちの会であることはすぐわかりました。

当時の様子を会の15周年記念誌に井口さんが書いています。

「街づくりの会が産声を上げたのは昭和52年、私の元に電動車いすが給付されたことに始まる。自分で移動できる“翼”を得た思いで外に出てみると段差があったり電柱が行く手を阻んだり、放置自転車や商店のワゴンが我が物顔ではみ出ているありさまだった。こういう状況でどんなふうに街に出ているのか車イスの友人に聞いてみると

『だから街に出ないのさ…』

という返事。これでは障害者をとりまく状況は一向に改善されない。

そこで『街の点検活動とガイドブックづくり』を始めるために仲間を募ることにした。今では考えられないことだが、車イスに拡声器とプラカードをとりつけてボランティア募集に出かけたのである。学生運動が盛んなころだったので私の隣では大学生がビラを振りかざして大声でスローガンを怒鳴っていた。現在も2児の父親になって会を支えてくれている矢沢さんと出会ったのもこの頃である。」

井口さんとの初対面の印象は、どんな感じだったんですか?

当時、私は24歳、井口さんは35歳くらいだと思います。外見は端正な顔立ちだし、障害を負うまでは若くして内装業やスナックの経営者だったというだけあって、やり手の経営者、切れ者という感じでした。得意分野とか価値観も何か違うなあ、と感じましたが、だから張り合ったりすることもないし、足りない部分を補え合えれば何か面白いことができそうという期待感がありました。

実は、腰をすえてと思ったのは、別の理由からです。会に顔を出すようになって自宅も訪問しましたが、家には奥さんと小学校2、3年の子供がいました。ある日、こんな話をききました。

井口さんは、交通事故で頸椎を損傷して病院の天井を眺める日々の中で「これで俺の人生も終りだ」と絶望したそうです。病院やリハビリで知りあった友人の何人かが退院して数年で亡くなったという話を聞いて、次は自分と覚悟したそうです。そんな時に「後に残る子供のことを考えると、僕のお父さんはこうだったと胸を張って言える何かを残したい」と痛切に考えたそうです。私は、その話にいたく感動して「よし、ここはひと肌ぬいで何かを残す手伝いをしよう!」と決意しました。会発足当時のことや現在の法人設立の原点ともいえるエピソードについても記念誌に綴られています。

「発足当時、障害者の会員は私ひとりであり、会員は学生と社会人が大半を占めていた。この時期の活動は、調査や研究、出版活動が主なものだった。その後、障害者は数名増えたが、車イスや松葉杖の比較的中軽度の人が参加する状態が長く続いたが、昭和60年に新宿区立障害者福祉センターがオープンして、会に大きな転機をもたらした。

センターに設置された自立生活体験室を通じて一般就労が困難な重度障害者と彼らの親たちとの出会いが生まれた。重度障害者の自立を論じる時、とりわけ母親の問題は奥が深い。家族の中でも重荷がのしかかってくる。そして、ひとりの女性としての生き方は犠牲にせざるを得なくなくなる。一番の問題は介助のあり方であり、社会的条件が整備されなければ、“一心同体の人生”と表現される親子関係は変わらないだろう。

障害者福祉センターで談笑する明るく、たくましいお母さんたちを目にしながら

『このお母さんたちと共に新宿の福祉を作り上げていけたら…』

と思いを新たにしている昨今である。」

その頃、所長は、街づくりの会で具体的にどんなことをしたんですか?

私は、大学の講義は休んでばかりで出ても上の空だったのですが、障害者問題や人生のあれこれについて本で調べることは好きでした。出版関係で就職できればという思いもあって出版社や労働組合の機関紙の編集部でバイトもしました。だから会の出版活動なら役に立てるだろうという思いがあり、出版活動を中心にかかわることにしました。私が参加して2年目くらいに、

①「新宿車イスガイド」を発刊して、それから2年ごとに、②「段差をこえて〜街づくりのための実態調査報告書〜」、③「障害者の移動の権利」④「ビデオ版車イスガイド」、⑤「障害者の暮らしと介助〜地域生活における介助に関する調査報告書〜」と5冊の本を発行しました。出版費用を捻出するためのバザーや助成金の申請、取材や調査・分析、執筆を学生や社会人の素人のボランティア集団がやりぬいたのは今でも不思議ですが、素人だからできた、色々な人がいたから苦労を苦労とも思わずに楽しくやってのけたと思います。好きなこと、楽しいことだと1+1が3にも5にも10にもなるものだなあ、と実感できた日々でした。

そんな素人集団の最高齢は83歳の“石井のおばあちゃん”でした。

「ひとりで都営住宅に住み『子どもの世話にならないわ』と、一見頑固な生き方を貫いていたけれど実は誰よりも優しくて、穏やかな笑みを絶やさない人でした。『皆さんのお役に立てると思うと、楽しくて仕方がない、本当にありがたい』と言いながら生き生きと動き回る石井さんの姿に触れた若い会員たちは『年を取ったら、石井さんのような生き方をしたい』と憧れました。」

と井口さんは記念誌に書いていますが私も同感です。

若い会員も愉快で素敵な面々がいっぱいで、ここが“人生の学校”のようでした。お堅い職業では新宿区や都の職員、福祉研究所の研究者。民間では秋葉原の電気街の店員、大手証券会社や家電会社の営業マン、変わり種では海外青年協力隊の職員や八百屋のお兄さんや酒造会社のOL、大学生もいれば専門学校生もいました。

私は、初めの2年間は学生会員で、新宿区への要望活動を中心に活動して、その後、社会人になると出版活動を中心に活動しました。毎週木曜の夜に定例会があり、月1回日曜日に昼間の活動をしました。本の出版には百万円以上の資金が必要になるので年1回ホールを借りて大きなバザーを行いましたが、その季節は新聞に寄付募集の記事を出して週末に車で回収に回りました。出版以外の活動費の捻出のためにスーパー前の空き地に木箱を並べて路上販売も何度かしました。隣で靴や傘、海産物を並べている人がいたので警察に追い出されることもないと思ったら、その場を仕切るテキヤに凄まれて退散したこともありました。売上がいいと嬉しくなって居酒屋で祝杯をあげました。

一方、障害者福祉センターの自立生活体験室を業務委託されたことで、専門学校を卒業した学生会員ふたりが会から給料をもらい生活をする“プロ”になりました。体験室は、介助者の病気や冠婚葬祭等、緊急時の預け先としての短期入所と“親亡き後”も地域で暮らせるように第三者の介護に慣れることを体験する自立支援機能を期待されて開設されました。その後10年くらいの歳月で会はボランティア主体の会から職員による障害福祉サービス事業所へと変貌していきました。

「あの頃、矢沢さんはふたりの子持ちだったのでそれにふさわしい給料を払えなかったから声をかけられなかった…」

と後になって井口さんが申し訳なさそうに話していました。私も雇う、雇われる関係じゃないから井口さんといい関係でいられるし、縁があればいつか仕事で会に貢献できる日が来るだろうから、それもいいかなと思いました。

仕事と家庭、ボランティア活動と何かと大変だったでしょう?

大学を3年留年して入社したのは舞台装飾の会社でした。会社は、日本武道館はじめ大きなホールのイベントの舞台の制作から各種店舗の内装をする会社で、新人は、深夜、早朝を問わずに現場に駆り出されましたが、仕事は楽しかったです。でも、総務部に配属されたのが嫌で1年で辞めました。転職するなら手に職を持ちたいと思って印刷会社に入社しました。版下製作に配属され、年下の上司の部下になりました。上司からは、プロとしての基礎はなっていない上に何度も同じミスをする“使えないヤツだ”とよく叱られました。いくら残業をしてもド素人で基礎が未熟なので納期に間に合いませんでした。

それでも会に来ると印刷には一番詳しいのでみんなが頼ってくれて

「何でもできて助かる!」

と誉めてくれました。何度叱られても、私はもっと仕事を覚えて会のみんなの役に立ちたいと思いました。その会社は外注先にデザイナーがいて、何故かその人に気に入られて1年後に渋谷のデザイン事務所にデザイナー見習いとして推薦されました。

事務所は、社長とデザイナー4人でしたが、カメラマンやコピーライター、イラストレイターが日常的に出入りしていました。予算の厳しい仕事はデザイナーがコピーも書くし、写真も撮るなど何でもありでした。ここに12年いたおかげで三流ですがイラストもコピーも看板制作もこなす“何でも屋”になりました。デザインの基礎のなさを痛感した私は、毎週1枚、会の知り合いにイラストと宣伝コピーを添えたハガキを送りました。相手はデザイン学校出身者だったので助言をもらえるという期待もありました。会の帰り道で

「とても上手だった」

とほめてもらい、私は

「俺って、実は隠れた才能があるかも…」

とすっかりその気になりました。

見習いの文字がとれた頃に事務所の社長を仲人にハガキを出した“会の知り合い”と結婚しました。数年後、彼女の友人から

「矢沢さんからハガキを沢山もらって、下手なイラストやヘンテコな文章だと思ったけど、いつも誉めてあげたんだ、と彼女は話していたわよ」

と聞きました。あの日以来、女房には頭が上がりません。

“何でも屋”になって良かったのは、障害者センターを通じて知り合った新宿養護学校の子供たちや家族向けに行ったイベントで、デザイナー仕事で覚えたことが役立ったことです。

記念誌に私のこんな文章があります。

「第1回目の運動会は2月末に行った。題して“寒さも吹き飛ぶ運動会”。『障害者が特に家に閉じこもる真冬に運動会をやろうという発想が、いかにも街づくりの会らしい』と誉めてくれた人がいた。そんな深い意図があったわけではないが、冬でも運動会をやれば大歓迎されるという予感はあった。それまで養護学校の運動会を2度ほど見る機会があり、工夫次第で障害が重くても楽しい運動会ができると思っていた。親も子も、障害のある人もない人も、とにかく思いきり体を動かすこと、思わず大きな声を張り上げてしまう、そんな運動会をやってみたいなあ、という思いが膨らんでいった。それからというもの「運動会」の3文字が頭にこびりついてしまった。

街を歩いていても、ごはんを食べていても、女房子供の姿を見ても運動会、運動会…。女房は

「病気だからしかたがない」

とあきれ果て、あきらめた。本屋の前で“母を訪ねて三千里”の絵本があると

『そうだ、よくある借り物競争で母親を借りるレースができる。それも吉永小百合そっくりさんや新宿一番のかかあ天下とか…』

などと考えてしまう。子供が家で“ウォリーを探せ”という本に夢中になっているのを横目に親は別のことを考えている。

『そうだ、各チームの“キャプテンを探せ”ができるぞ!でも本物の絵本のような絵を書くのは大変だし、コピーだとすごい枚数になる。ああ、だめか』

で数日後。新聞の折り込みチラシを見て

『よし、これだ!』

とせっせとチラシをためて切抜きを始めて、ごみ箱の雑誌を拾ってグラビアの切り抜きも始めた。こうして畳3枚を埋めるほど人物写真がたまった。

いつしか夢の中にまで運動会が登場した。ここまでくるともうがまんできない。

『何が何でもやってやる!』。

この執念が家族にのり移り、ついには会員にも伝染していく。

『やるしかない雰囲気だね』、
『かわいそうだから、やってあげようよ』

ということでついに開催にこぎつけた。

つらいこと、悲しいことにはここまでという限度はないが、楽しいことにもここまでという限度はないと思う。昨日はこのくらいで満足と思っていたのが、今日は

『こうすれば、もっとみんなに大きな満足が返ってくるぞ』

となってしまう。本人は本当に幸せ者という他はないが、家族はいい迷惑だ。迷惑に迷惑を重ね4年目。今年から頭の運動会(クイズ大会)まで始めてしまった。こうして年に2度、私は運動会に取りつかれてしまう。」

好きなことは仕事にしない方がいいということですか?(以下、次号)