第5回落合つながるカフェ 「家族介護と親離れ・子離れ」

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 7月9日(木)に「第5回落合つながるカフェ」が開催されました。今回は熊谷晋一郎さんを講師に迎え「家族介護と親離れ・子離れ」というテーマで基調講演をしていただいてから参加者の意見交換をしました。今回も保護者、職員や地域の福祉関係者など約40名が参加してにぎやかな会になりました。
 熊谷さんは、脳性まひの当事者で小児科医として発達障害や自閉症、学習障害の診察や研究をしてきましたが、現在は東京大学先端科学技術研究センター准教授で、バリアフリーや障害者の当事者研究が専門です。
 以下、当日の講演録です。

Kouenkai

はじめに…自立の反対語は何?

 今日のテーマは「家族介護と親離れ子離れ」ですね。私は最近「、自立とは何か」というテーマでよく講演をしていますが、いつも、最初に参加者に「自立の反対語は何か」と問いかけています。いろいろな意見が出ますが、やはり一番に多い意見は「依存」、二番目は「自分のことを他人に決められてしまうこと」です。確かに「依存しないこと」や「自分のことは自分で決めること」が自立だと思っている人は、世の中に多くいます。今日の講演で、私はこの「自立の反対語は依存である」という常識的な考え方は実は間違っているのではないか、ということについて話をします。
 今日は、前半では「実は依存は自立の反対語ではない」ということ、後半では「実は誰も自己決定などしていない」ことを話します。多くの人の「自立とは、誰にも依存せず、何でも自分で決めること」という思いに反して、そんな状態などまやかしではないかという話をした上で、最後に障害の当事者にとってどのような暮らしが自立的な生活なのかについてお話します。

みんなが障害者になった時

 私も当事者運動に長年関わってきましたが、当事者運動の中にも「依存してはいけない」、「自己決定こそ大事」という強靭な考えがあります。そうすると、依存していない障害者、自己決定ができる障害者が偉いことになり、障害者の中に序列が生まれ、差別内差別のような感じになってしまいます。私はそれを終わらせたいという思いで、ここ数年は活動しています。そのような問題意識も背景にあり、私は、すべての人にとっての自立ということを考えたいと思います。
 皆さんは東日本大震災の時はどうしていましたか。あの日、私は6階建の建物の5階にある研究室にいました。揺れが収まってから、避難するためにエレベーターまで行き、ボタンを押すと停止していて動かず、焦りました。幸いなことに、偶然顔馴染みのスタッフが私を発見して、体を抱えて運ぶことで1階まで逃がしてくれました。私の電動車いすは200kgもあるため、仕方なく5階に置き去りにしました。私にとって車いすは身体の一部であり、それなしでは身動きが取れませんので、置き去りにするのは断腸の思いでした。
 この経験で、私は「これが障害というものだ」と痛感しました。あの時、障害のある人もない人も一斉に不自由を経験し、みんなが障害者になったようなものでした。誰もが逃げなければならないという状態に陥りました。しかし、私と健常者では逃げる方法の数が違ったのです。ここで依存という言葉を使いますが、健常者には階段やはしごなど、逃げるための依存先がいくつもあります。
 「頼れるもの」という意味での依存ですね。それに対して、私にはエレベーターしかありませんでした。依存先が多い人と少ない人の違いが歴然とするのは、少ない人の「なけなしの依存先」がストップした時です。健常者には他の選択肢があり、「あれがダメでもこれがある」と切り替えができますが、障害者はそれができず、次の一手を打つことができなくなってしまうのです。
 よくよく考えてみたら、世の中に何にも依存していない人は存在しません。誰もが他人の作った衣類に身を包み、公共交通を利用しているように、多くの人やものに依存して生活しています。ところが、障害者には依存先が極端に少ないのです。ここが、私の考えが常識的な考えと逆のところです。一般的には「障害者は、多くの人やものに依存し過ぎ」と勘違いしていますが、実は障害者は依存先が少ないのです。なぜ少ないのかというと、世の中のありとあらゆるもの(食べ物、交通機関、制度…)のデザインは健常者に合うように作られているからです。だから健常者には依存先が多い一方、障害者には何もかもが合わず、世の中が居心地の悪い場所となっています。

100点より30点がいい!

 実は「自立している」はずの健常者の方がより多く依存しています。だから、依存は自立の反対語ではありません。その逆で、依存こそが自立です。このことがとても重要です。
 障害者にとって依存先の数が少ないと困ることは、「あなたなしではもうおしまい」という状態に置かれてしまうことです。この「あなたなしではもうおしまい」という度合いの強さを、私は依存度の深さと呼んでいます。このことはものや道具との関係にも当てはまります。ここで大切なことは、依存先の数が多ければ多いほど、個々の依存先への依存度は浅くなるということです。つまり、依存先の数と依存度の深さは反比例の関係にあります。この関係がとても重要です。というのは、暴力や虐待のリスクはここから発生するからです。相手への依存度が深まるほど、暴力や虐待を受けるリスクは跳ね上がります。その場合、相手が多少の乱暴を働いても我慢するしかないですよね。私には介助者が約20人います。そうすると、もしひとりの介助者が私に熱湯をかけたとしても、すぐにクビにして新しい介助者を雇えば済むわけですが、もし介助者がひとりしかいなかったら、私は諦めて泣き寝入りするしかありません。
 このように、ケアする人への依存度が深くなり過ぎている状態、あるいはケアする人がその相手の依存先を独占することで相手を支配する状態を“共依存”といいます。ケアする人は相手を自分だけに依存させて、他の人に依存させないのです。共依存は善意にもとづくことも多いので厄介です。しかし、そこでどんなに質の高いケアがなされたとしても、それを受ける人にとってはリスクが高く、むしろ質が高いほどにリスクは高まります。実際、私は介助者を採用するときに上手な人は選ばないようにしています。というのは、私もついその介助者に頼りたくなってしまい、依存先の数が減ってしまうからです。上手すぎる人は危ないのです。だから、私はあえてちょっと下手な人をたくさん採用するようにしています。質は量でカバーします。100点満点の人がひとりよりは、30点の人がたくさんいるほうが遥かに安全です。そのことが障害者にとってのリスクヘッジであり、障害者の自立を考えるうえでとても重要だと思います。

親離れ、子離れの難しさ

 障害者の親離れを考えるうえで、最大のハードルとなるのはこの点かもしれません。親にはやはり愛情があり、「私がこの子のことを一番理解している。この子にとって最上のケアを提供できるのは私以外にいない」という思いがどこかにあるからです。私の親もそうでした。しかし、実際はその思いこそが共依存と独占状態を引き起こしているのです。親が子を一番よく理解しており、子に最上のケアを提供できるのは当たり前です。親子の関係は何年もかけて培ってきたものであり、歴史や関係の密度が違います。親が子のケアを自分と同等の介助者にバトンタッチするという理想を掲げることは、子にとって「次の親」を作るようなものです。親は自分の身代わりとして子を支配する人を作ろうとしており、遠からずそれは抑圧や暴力に転じていくと思います。そうではなく、親は自分よりは劣っているが、30点の人を10人集めれば自分並みになる、それくらいの気持ちで介助者を増やすことが大事です。一人ひとりは下手であること、それを取っ替え引っ替えできること。最上のケアを期待せず、むしろ上手な人が来たら警戒することが大事なのです。
 私は震災時につくづく思ったのですが、自分にとってエレベーターが一番快適なので当たり前のように使ってきましたが、それがある日機能停止した時に、いかに自分がお気に入りとばかり付き合っていたのかを痛感しました。お気に入りとばかり付き合っていては、いつか足元をすくわれる。介助者との関係においても同じです。お気に入りとばかり付き合っていては、その人が裏切った時に全てが終わってしまうのです。

依存先を増やし依存度は減らす

 ここまで考えると、どうも「実は自立の反対語は依存ではない」ということが、みなさんに伝わったのではないでしょうか。「自立は依存の延長線上にある」ということです。ただし、ここでいう依存が数の多さなのか、度合いの深さなのか、それをしっかり分けることが大切です。先ほど述べたように、両者は反比例するので、依存先の数は増やすこと、依存先への依存度は浅くすることが大事です。そして、介助者との関係も親との関係も、取っ替え引っ替えできるほどに軽くしておくことがとても重要です。
実は障害がない子どもの発達をみても、赤ちゃんは障害者と同じで親にしか依存することができないので、いってみれば最初はみんな共依存の関係で生まれてくるわけです。ところが、健常の子どもは世の中が自分たちに合わせてデザインされているから、自然と大きくなるにつれて、特に本人が努力しなくても、友達や学校の先生、世の中の道具など、親以外にも依存できるようになっていくのです。そうすると親への依存の度合いはだんだん浅くなってくる。こうして依存先を散らしていくのが子どもの発達です。
 一方、障害をもっていると、親以外の依存先が極端に少ない。そこが障害者の自立における問題です。障害者の自立は本人や親の努力だけの問題ではなく、社会の中にいかに障害者の依存先を開拓するか、いかに障害者向けの使い勝手のよいデザインを増やしていくか、社会の変化に関わる問題なのです。学校の勉強にしても、教科書や教え方も多数派の子ども向けにデザインされていますが、それでは困りますよね。本人や親の努力にも限界があり、社会の側が変わって依存先を増やさなければ、障害者の自立は絵に描いた餅になってしまう。それが私の考えです。
 そういう意味で、バリアフリーや社会のデザインを変えてくれるユニバーサルデザインという発想は、依存先を増やすという意味での障害者の自立を促していきます。社会全体が障害者にとって依存できるものに変わってはじめて、自立というものは成し遂げられます。

Kumagai

誰も自己決定などしていない

 講演の後半では、自己決定の話をしたいと思います。「依存は自立の反対語ではない」という話をすると、「自立とは依存をすることなのか?それだけではなく、複数の依存先から自分で自由に選ぶ、その部分に自立が生じるのではないか?」という質問を多くの方から受けます。確かにそんな気もしてきますが、実際はどうなのでしょうか。
 自己決定は障害者同士のなかでもしばしば揉める論点で、「あの人はしっかり自分で決められる/決められない人だ」と、その内部で上下関係が生まれやすい場所です。しかし、私はどうも、そのように強靭な意見を言う人は、何か暗黙のうちにトリックを使っているのではないかと思います。本当は自己決定していないのに、自己決定しているということにして威張っているのでないか、そんな風に感じるのです。具体的にいうと、知的障害とされる人々はしばしば自己決定が困難だと言われますが、それは本当なのでしょうか。それを言う人は、そもそも自己決定についてたいしてわかってもいないのに、「あの人は自己決定が得意だ/苦手だ」と言ってしまっている。そのような考えは大間違いではないか。今日はそのことを少し話してみようと思います。
 私は実は誰も自己決定などそんなにしていないのではないか、と考えています。みなさんも、朝起きてから夜寝るまでの一日の流れを考えてみてください。どれぐらい自己決定されていますか?私なんて、昨日は1回も自己決定していないですね、全部仕事に追われています。目の前のタスクをこなすだけで精一杯で、自分で決めるなんて、本当に稀なことだなと思います。むしろ、朝起きてから夜寝るまでずっと何かに強いられているか、もしくは習慣か惰性でやっているか、そのどちらかです。
 このことが明らかになったのは、私がある介助者と出会ったことがきっかけです。その介助者はとても真面目で、「利用者様の自己決定権を守らないといけない」ということを真剣に考えており、また信じてもいました。それはよいことなのですが、具体的に彼が何をしたかというと、入浴介助時に体を洗う順番を事細かに尋ねてくるのです。私は入浴時には明日の予定でも考えたいと思っており、体は自動洗車のように適当に洗ってほしいのですが、ところがその介助者は身動きをしないのです。私が「どうしたの?」と声をかけると、彼は「いや、どこから洗ったらいいかわからなくて」と言う。
「ああ、なるほど。私は自己決定しなければならないのか」と思いました。それで、「では左手から洗ってください」と指示を出すと、今度は「左手のどの部分から洗えばよいのかわからない」と言う。ここまで来ると悪い予感がしてきますね。そう、私はどこまでも指示を出さなければならないわけです。
 このように、自己決定にはきりがありません。あらゆる日常生活の一挙手一投足は、細かく砕けばどこまでも砕けるわけです。お風呂に入るという何気ない行為でも、あるレベルから下の自己決定はどこまでも細分化できますが、どこまでも自己決定している人なんていませんよね。みなさんがそれをどういう風にやっておられるかというと、細かい動きは意識に上っておらず、無意識にやっているはずですね。それは習慣化しており、頭では別のことを考えていて、体が勝手に動いてくれているはずです。私にとって介助者は自分の体のようなものあってほしいので、勝手に動いてほしいのです。いちいち自己決定をして命令をしなければならないということ自体が不自然です。ですが、その一方で、入浴するタイミングやその前後の行動まで介助者に決められてしまうと困ります。テレビを観てそのあとに入浴したいと思っているのに、介助者に「熊谷さん、お風呂の時間なのでテレビを消しますよ」と言われても、それは「ちょっと待って」となる。つまり、私は入浴するタイミングなど大ざっぱなレベルでは自己決定したいが、体を洗う順番など細かいレベルでは自己決定などしたくない。そういう境界線があるはずなのです。
 「どこは自分で決めたいのか、どこは決めたくないのか」、この境界線を専門用語ではベーシックレベルといいます。私にとって、いつお風呂に入るのかはベーシックレベルより上ですが、体を洗う順番はベーシックレベルより下で、「よきにはからってくれ」という領域です。

ベーシックレベルの共有から

 私は自己決定を考えるうえで決定的に重要なことは、ベーシックレベルには個人差があるということだと思っています。人によって自己決定したい領域としたくない領域は違うのです。障害の当事者にせよ支援者にせよ、「あの人は自己決定が得意だ/苦手だ」と言ってしまう場合、その人がベーシックレベルについて固定観念をもっている可能性があります。「ベーシックレベルは常識的にこの辺だろう」という固定観念をもっているからこそ、たとえば自閉症の人を目の前にしたときに「どうしてこんな細かいことにこだわるのか」という風なバイアスをかけてしまうのです。
 その人が「どこは自分で決めたいのか、どこは決めたくないのか」ということが重要です。人には何かを決める権利がありますが、何かを決めなくてもよい権利もあります。私は体を洗う順序のように、細かく決める/決めさせられることにはとても不自由を感じます。もっとスムースに生活がしたいのに、そこを無理強いして、自己決定こそが正義だという論調で迫られても困る。自己決定しない権利が無視されています。
 障害者の自立を考えるうえで、ベーシックレベルを見極めた支援やサポートを考えることがとても重要です。その人その人にとっての自立があり、それはその人のベーシックレベルを丁寧に共有することからスタートします。そのなかで相手に常識的なベーシックレベルや規範を押しつけてしまわない。善意や思い込みから始まる押しつけは抑圧や暴力につながります。
 このように、ベーシックレベルには個人差があるという前提に立つと、おそらく自己決定はそれが得意・不得意だという領域ではなくなります。その人にとっての自己決定というものの可能性が常に存在するようになるはずです。これが今日の話の結論になります。

●カフェに参加した編集委員から

 当事者としての思いや考えを直接お聞きすることができて職員としては利用者支援にあたる上で良い勉強になりました。講演の後で参加者は4グループに分かれて「講師が困る質問」も出して答えてもらいました。紙面の都合でそこまで紹介できなかったのが残念です。熊谷さんは「ご希望があれば続編もOK」だそうです。こう、ご期待!