障害者の家族と本人、 支援者のこと

タグ: ,

あせらず、ゆっくり、みんなで…

新宿区立障害者福祉センター館長
矢沢 正春(前あゆみの家所長)

あゆみの家が区から法人に運営移管した経緯は前回書きましたが、職員の5割は転職や新規採用で、法人の異動による配置も複数の事業所間の異動だったので寄せ集め集団の感は否めませんでした。ラグビーの日本代表のような“ワンチーム”にどうしたらできるのか、手探りのスタートでした。

法人としては障害者福祉に関する理念や働くルールがあるので職員にそれを伝えることが必要でしたが、私は、こう思いました。
「お互いに縁あってあゆみの家で働くことになったのだから、職員には、いい職場だなあ、いい仕事ができて毎日が楽しい…と思ってほしい。家族や友人に自分の職場はこういう職場だと胸を張って言えるようになってほしい。そのためにはそもそも私はどんな縁があってここにいるのか、私にとっていい職場、いい仕事とは何かを自分の言葉で伝えよう!」

でも、業務のための会議の時間の確保も思うに任せない状態だったので、直接業務に関係ない話をする時間はとれません。そこで運営移管の準備期間の頃から週1回ペースで職員報「あゆみたい!」を発行することにしました。1月中旬に第1号を出して最終号は
8月下旬の第24号でした。今回は最終号の記事の紹介をしながら、法人の経営理念の第一に掲げている「利用者主体」について当時考えていたことを紹介します。最終号の冒頭で次のような記事を書きました。

ふるさとの原風景はありますか?

皆さんは、夏休みをどう過ごしましたか?私は、母の認知症の進み具合を確認するために帰省しました。帰省先は長野県諏訪郡です。私の田舎は、標高1000メートルの高原の村で、天気がいい日には八ヶ岳と南アルプスや富士山が一望できます。「ふるさとは遠きにありて思うもの…帰るところにあるまじや」と言われるように、高校を卒業して上京した時の思いは、この詩と同じでした。「このまま信州の片田舎で一生を終るのは嫌だ!」、でも、一方では「東京人にはなれないし、なりたくもない」という屈折した思いもありました。あれから40年、圧倒的に東京暮らしが長くなり、すっかり東京のオジサンです。帰省すると毎年、小学校の頃の通学路をゆっくり歩いてみます。トトロの森のような山林の小道に足を踏み入れた途端に子どもの頃の思い出がよみがえります。空気も風も川の流れも、全てが東京とは違います。

「ウサギ追いしかの山、子ブナ釣りし…」という世界が今でもそこにはあます。真夏でもエアコンも扇風機も使いません。朝はセミの声で目が覚めて、近所の家はどこもはかかっていないから出入り自由、縁側に座って友だちの帰りを待ちました。お腹がすくと桑の実や山イチゴ、あけび、畑のトマトを食べました。もちろんパソコンも携帯電話もテレビゲームもありません。塾も家庭教師もなし、財布を持つ必要もありませんでした。子供の徒歩圏に店がないからお金を使う場所がありません。

私の身の回りの「安心・安全」への考え方、感じ方はこういう幼児期の体験からできています。だから最近の福祉施設や学校の「安心・安全」最優先の管理のあり方は、私の感覚では「監視社会」「、人を見たら泥棒と思え」という社会に見えてしまいます。皆さんは、
「三つ子の魂、百までも」というような原風景はありますか?

river

当事者主体って何?

法人の運営になって初めての「あゆみだより」が間もなく発行されます。あゆみの家に来て、私の関心ごとの中心は「自分のことを自分の言葉で伝える術を持たない重度・重症の障害者にとって自立とは何か?」ということです。あゆみの家の施設としての将来像を考える場合にも、これが出発点になると考えています。

7月25日に前の職場の障害者福祉センターで「個別支援力の強化」というテーマでトライ工房の坂野さんの体験談(自分史)による講演会がありました。演題は「障害者の家族と本人」で、話の中に

「家族と本人の間に立つ支援者はどうあるべきか、どうあってほしいか」

も盛り込まれていました。トライ工房は、あゆみの家の通所者に比べると重症というレベルではありませんが、「生活介護」の作業所なので自分のことを自分の言葉で伝えることができる通所者は少数派です。ここでも高齢化や重度化によって、自己主張や自己選択が困難になっている人が増えています。講演の後で出された職員の質問にもそれは現れていました。いわく「本人の意思をどこまで尊重できるのか?」、「個別支援計画を作っても本人にやる気が感じられない。どうしたらいいのか?」、「本人の思いを傾聴する時の工夫は何かありますか?」、「本人のことなら何でもわかっているという保護者の意見と本人の意見がくい違うと感じた時には、支援者はどうしたらいいのか?」など。同じ「生活介護」の看板を掲げている事業所でも「当事者主体」への職員の取り組み方や悩みは違うようにも感じます。

まずは、坂野さんの講演の記録(本人がパソコンで入力して配布した文章)を読んでみて下さい。

障害者の家族と本人

(1)自己紹介:

母親の胎内にいる時は元気な子だったようです。その影響かもわかりませんが、出産時にへその緒が首に巻きついてしまい、仮死状態で誕生したそうです。それでも一命を取り留めましたが、脳に後遺症が出て「障害」という形で残りました。

(2)親の罪悪感:

私は親の本当の気持ちはわかりませんが、罪悪感はとても大きかったと思います。当時は、現代のようにバリアフリーが発達していなくて、障害とは「異常」であり、治療や社会適応のための手段としてリハビリが中心になる。障害者が味わう社会的な不利は、個人の問題として克服するものという考え方です。私の親もこのような考え方をしていたはずです。だから少しでも障害を軽くしてあげようという思いで、4歳から8歳まで、私は北療育園に入園して日々訓練が続きました。教育は同じ敷地内の北養護学校に通学しました。

外泊は土日の1泊2日。当時は外泊が唯一の楽しみで、土曜日が来るのが楽しみでした。日曜日に園に戻って親が自宅に帰るのを私は必死で引きとめたそうです。親としては、心が引き裂かれる思いだったと思います。これは非常につらかった出来事でした。障害者として生まれなければ、このような思いを親子共々しなくてもいいことです。恐らく、親としては、私の面倒を一生見ていくという覚悟をしたのは、出産後からこの幼児期の頃のような気がします。

(3)家族と暮らす:

北療育園を退院後は自宅で暮らすようになり、学校も新宿養護学校に転校しました。リハビリは、転校後も学校の授業として続けました。この頃、障害者の親向けのカルチャー教室が障害者福祉センターであり、私も母親に連れられてセンターに来ました。その際に井口さん(障害者団体連絡協議会の会長)や自立生活体験室の職員に出会いました。その出会いが私の自立生活に向けた第一歩だったと後でわかりました。

家族、特に親が子供を守るのは当然の役割ですが、障害児者の親は過保護になりやすいです。私の親も例外ではありません。「この子のためなら何でもしてあげる、守りたい」という強い思いがあり、私がやろうとすることを何でも代わりにやってくれました。私もそんな生活が当たり前だと思っていました。

親がカルチャー教室に参加している間、私は体験室に行って遊んでいました。ボタンひとつで開閉するブラインドや高さの調整が自由にできる調理台やトイレなど、初めての体験でとても楽しかったことを今でも覚えています。そのうちに当時珍しかった電動車いすにも乗せてもらい、体験室のことが益々気にいったので体験入居を希望しました。でも、11歳(小6)だった私は、利用資格の16歳に満たないため無理だとわかりました。

(4)鉄は熱いうちに打て:

しかし、私の強い思いをくみとって井口さんや体験室の職員の皆さんが新宿区に何度も働きかけてくれたおかげで体験入居が実現しました。入居する前に職員と一緒に1週間の予定を作り、食事のメニューも自分で考えて、親から離れて自分の生活を組み立てることを初めて経験しました。

ある日、職員から「今日は一人で買物に行きなさい」と言われ、その時は鬼のような職員だと思いましたが、食材を書いたメモと財布を持って、電動車いすでスーパーに行きました。普通なら往復40分程度ですが、この時は2時間かかりました。店の中をウロウロしていると「お手伝いしましょうか?」と声をかけてくれる人が何人もいましたが、依頼するのが怖くて首を横に振って断ってしまいました。それがある瞬間ふっきれて、店員にメモを渡して一緒に買物につきあってもらいました。帰り道では「こんなに時間がかかったから怒られるだろうなあ」と思いましたがとり越し苦労でした。ごく普通に「おかえり!」と出迎えてくれました。その瞬間、何か分かりませんが、大きな喜びに変わりました。

今考えるとその職員も相当な覚悟をしたと思います。1人で行かせて事故にあったらどうしよう、財布を取られたり、お金のやり取りに失敗したらと本当に心配だったと思います。でも、一人で行かせた。可能性とタイミングにかけたんだと思います。もちろん当時の私は「自立生活」の「自」もわかりません。ただ、電動車いすを手に入れた嬉しさで、自分の力でどこへでも行きたいという強い思いがありました。そこに、私の自立生活に向けた可能性を見つけてくれて「鉄は熱いうちに打て!」のたとえのように、その職員は「今だ!」と見極めてくれたんでしょう。こんな決断は家族ではできません。支援者、職員だからできることだと思います。その後も自立生活のための体験入居を重ねて、職員と一緒に行動することで「親の目が黒いうちに自立していくことの大切さ」を教えられました。そして、そのチャンスが20歳の時に来ました。

※続きは、次号にて掲載いたします。

yazawa-sakano