温故知新
温故知新という言葉があります。「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」ともいいます。
あゆみの家は、一昨年(2021年)に創立50周年記念のお祝いをしました。それを機にホームページのリニューアルも進めましたが、50年前にあゆみの家の設立に尽力した人たちはどんな思いだったのか。そもそも当時の障害者福祉はどんな状況で、あゆみの家の誕生にはどんな意味や社会的なインパクトがあったのか。今、あゆみの家に関わっている人たちに伝えるのは、私のような古~い人間の勤めかもしれないと思いコラムを書くことにしました。古い奴だとお思いでしょうが、昔話にも新しい発見や示唆に富む話があるかもしれません。
【クイズ①】あゆみの家は1971年に開所したから50年後の2021年が50周年というのは本当に正しいといえるのでしょうか。
①記念式典や記念誌まで出したのだから正しいに決まっている。
②間違いではないけれど、今のあゆみの家という意味では、実は50年もたっていない。
1971年、百人町4丁目に区立の通所施設としてあゆみの家は開所しましたが、定員30名のうち幼児部25名、成人部(当時は作業部といいました)は5名で設立当初は幼児のための通所施設であり、成人向けの事業はちょこっと付録のようについていました。その後通所希望者が増えて手狭となり、現在地の西落合に新施設ができて1977年から定員を大幅に拡大して幼児部30名、成人部21名になりました。だから現在のあゆみの家の始まりはこの年からといった方がいいかもしれません。そこで、どんな時代背景の中であゆみの家が誕生したのか見てみます。
新宿区の障害者福祉で大きな影響力を発揮してきた団体と言えば、「新宿区手をつなぐ親の会」と「新宿区肢体不自由児者父母の会」がありますが、ともに会の設立はあゆみの家の開設の10年ほど前です。このふたつの団体の10年余の運動の成果としてあゆみの家が誕生していますが、行政の側にも仕事の枠を超えて熱意を持ってこの課題に取り組んだ人たちがいました。官民を問わず、そこに関わる人たちの強い思いと粘り強い運動や仕事ぶりがあって道ができるのは、いつの時代も変わりません。
手をつなぐ親の会は、設立2年目の1964年に第1回総会が開かれて3つの決議をしています。
❶庇護授産所、特殊青年学級の新設
❷精神薄弱者の実情を関係機関に広く訴えること
❸会員の親睦と啓蒙による団結の強化
今日では死語になっている「精神薄弱者」とか「庇護授産」という言葉が使われていました。愛の手帳の制度はなく、精神障害者は障害者福祉の対象ではなかった時代です。身体障害者についても重度障害者は就学免除や就学猶予は当たり前、子供の将来を悲観した親による無理心中が新宿区でもあった時代です。
手をつなぐ親の会と肢体不自由児者父母の会は、あゆみの家設立後も協力して「第2あゆみの家の設立」や「障害児の全員就学」、「区立の福祉作業所の開設」、「重度障害者のための通所訓練室の充実」などの陳情や要望の運動を展開しました。
その一方で、区役所や関係機関でも保護者の要望を真摯に受け止めた現場の職員による勉強会や懇談会が開かれていました。新宿区肢体不自由児者父母の会の20周年記念誌には、当時の様子を区役所であゆみの家の開設準備担当をして、そのまま初代所長になった稲葉所長が次のように紹介しています。
「この問題のより具体的な運動と対応をアピールするため、当時の社会福祉協議会、肢体不自由児者父母の会、福祉事務所、ひまわり学級、その他有識者で構成する地域障害児問題協議会という私的連絡会を設け定期的な会合を重ね、これからの地域福祉の方向及び運営方法等について長期にわたって協議した結論は、あゆみの家相当の施設確保と運営体系であったと思います。」
さらに稲葉所長は、施設開所から1年後に発行された「あゆみだより第12号」で次のように振り返っていました。
ご承知のように、これまでの国又は地方公共団体における心身障害児(者)対策は、施設収容援護を中心とした施策が進められてきたため、在宅障害児はその谷間に埋もれ、早期療育や訓練の機会を与えられないままに放置されていた者が少なくなかったというのが実情ではなかったかと思います。
また、知恵遅れ幼児の育成指導については、国や都の施策が極めて乏しい実情であったと思います。これらの意味から言って、地域在宅心身障害児のすべてを対象とした区立あゆみの家の開設は、まさに画期的なものであって、これら子どもたちに対する福祉サービスに大きな役割を果たしているとともに、在宅心身障害児の福祉行政のあり方に新しい局面を拓いたものと考えます。
私どもはこの1年間多くの障害児をお預かりして痛感しますことは、幼児期における適切な指導訓練がどんなに大切であるか。1年間経た現在では、情緒や動きに様々な変化が表れており、その明るい表情の中に子どもなりの充実感があるのではないだろうかと考えるとき、この仕事に携わる者として心から喜びを感じます。
他の号でも施設のことが新聞記事で紹介されたことや、他区市から多くの視察や見学者が訪れて、先例のない先駆的な取り組みとして高い評価や激励をもらったことが紹介されています。施設開設の目的も内実も「障害児の通所施設」として始まっていたことがわかります。成人の在宅障害者の通所施設としての役割や取り組みが発信されるようになったのは、西落合の現在地に移転して成人の定員を大幅に拡大して以後のことでした。
【クイズ②】障害児の全員就学が実現したのは東京都は1974年ですが、その6年前、1968年に都が実施した「就学免除」や「就学猶予者」の比率で新宿区は都内で何番目くらいだったでしょうか?
①一番多かった(障害児に占める就学免除者や猶予者の比率が最も高かった)
②真ん中くらいだった
③一番低かった
正解は、小学生では新宿区は都内でワースト1、「①一番多かった」でした。義務教育は誰でも受けられるのは当たり前の今日ではそのつらさは想像できませんが、就学猶予といえば、後年、国際障害者年で障害者運動の中心にいた花田春兆さんの有名な句があります。
就学猶予
クレヨンポキポキ
折りて泣きし
あゆみの家の運営にあたり開設当時の職員はどんなことを大切にしていたのか、特に施設と地域の関係についてどんな考え方をしていたのか、再び当時のあゆみだよりから引用します。
心身に障害を持つ人々の対策は従来の施設収容を中心とした隔離的な施策を改めて、地域社会の中に新しい機能を持った小規模な施設を点在させ、これに関連した制度や機関、そして支援者がひとつの体系の下で、お互いに協力し合って総合的な解決を図っていかなければならないと言われている。
そこでこれからの施設づくりは、地域社会を十分に加味した幅広い形態の通園施設の設置を強く望まれている所以で、ますます通園施設の役割が重くなってきた。また、地域社会の重要な社会資源のひとつとして広くその存在意義を認められてきている。
本来、心身障害施設の最終目標となるものは、すべての人々が、この問題に関心を持ち、社会の中でこれらの対象者が生きる場や参加する場を見出すよう、協力、援助を求めていくことであり、そのために地域社会の中におけるひとつの構成と位置づけられていくことが必要である。
そして、施設は地域社会の住民ともできるだけ密着していかなければならないし、また、重い障害がある者でも地域社会から引き離すことなく、ひとりの住民として可能な限り受け入れていく努力をしなければならないだろう。
(あゆみだより第34号より)
この原稿が書かれたのは、今から50年前の1974年(昭和49年)。あゆみの家は設立当初から施設として地域交流や地域共生を大切にして、施設利用者が住み慣れた地域の一員として生活していくことをめざしていたことがわかります。
現在、あゆみの家を運営している新宿区障害者福祉協会の3つの経営理念(ミッション)のうち、2つは「地域」をキーワードにしています。ひとつが「障害者の地域社会での自立」であり、2つめは「地域貢献」です。施設運営の基本的な姿勢として、あゆみの家は区の直営時代から今日までこの理念が引き継がれています。