あゆみSTORY

ノーマライゼーションからインクルージョンへ①

「エド・ロバーツと自立生活」

今回はあゆみの家を運営している「社会福祉法人・新宿区障害者福祉協会」(以下、「新障協」と略称)について取り上げます。あゆみの家は2012年(平成24年)4月より区立区営から区立民営になりましたが、新障協はどんな成り立ちや理念を持った団体なのか、それがあゆみの家の運営にどのように影響しているのか、古~い人間の務めとしてお伝えします。

新宿区障害者福祉協会を象徴する人物と言えば、「新宿区障害者団体連絡協議会」の会長だった井口要氏(以下「井口さん」)を誰もが思い浮かべます。新宿区の障害者福祉関係者なら誰もが知る人ですが、私(矢沢)が知り合ったのは学生の頃で、1979年でした。養護学校義務化が始まった年で、その頃、井口さんは「新宿身障明るい街づくりの会」の会長でした。会の記念誌にこんな風に当時の様子を書いています。

「街づくりの会が産声を上げたのは昭和52年(1977年)、私に電動車いすが給付されたことに始まります。自分で移動できる足を得た思いで街に出てみると段差があって入れないとか、入れそうな店も入店拒否が日常茶飯事でした。こんな状況をどうしているのか頸椎損傷の友人に聞くと、「だから街に出ない…」という返事。これでは何も解決しないと思い、街の点検活動とガイドブックづくりを始めました。車いすに拡声器とプラカードをつけて大学構内に入ってボランティアを募集しました。現在も会の運動を支えてくれている矢沢さんと出会ったのはこの頃です。」

一方、大学で障害児支援のサークルを作った私は、成人の重度障害者のことを知りたいと思って「東洋一の先進的な障害者施設」と言われていた府中療育センターを訪れていましたが、大学の近くで障害者の街づくりを進めている井口さんに関心があって自宅訪問を何度かしているうちに会に深入りするようになりました。家には奥さんと小学校2年の息子がいました。井口さんは交通事故で頸椎損傷となり、退院して自宅に戻っても天井を眺める日々の中で「これで俺の人生も終わりだ」と絶望したそうです。病院で知り合った仲間の何人かは退院後数年で亡くなったという話を聞いて「次は自分の番」と覚悟したそうです。それでも「後に残る子供に『僕のお父さんはこんな人だった』と胸を張って言えるようにしてあげたい」と痛切に考えたそうです。

「街づくりの会」は、設立4年目に念願の「新宿車いすガイド~街に飛び出せ!車いす~」を発刊しました。その後、年1冊のペースで「段差を超えて~障害者の生活実態調査~」、「障害者の移動の権利~障害者の交通バリアフリー~」、「障害者の暮らしと介助」を発刊しました。出版活動と並行して、道路の段差解消や区立施設へのエレベーターやスロープ、障害者用トイレの設置等、街のバリアフリーを進める活動(専門職者を招いた勉強会、区議会への請願書、区長との懇談会等)の運動を展開していきました。本の出版には100万円くらいのお金がかるので、団地のスーパーの前にミカン箱を並べて路上販売をしたり、集会所で昼はバザー、夜は映画上映会を開くなどして資金作りもして、路上販売ではテキヤのおやじに凄まれたりしましたが、通行中の多くの住民からたくさんの励ましの言葉もかけられて、資金集めは住民への啓蒙活動にもなっていました。

「街づくりの会」にとって大きな転機となったのは、「新宿区立障害者福祉センター」の開設でした。それは区内の障害者団体の長年の悲願でもありました。当時は障害者団体が活動で使える区立施設が少なくて、一般就労が困難な障害者の日中の居場所も少なく、カルチャー教室やスポーツも軽度の障害者が何とか参加できる程度だったからです。そんな中で障害者福祉センターの開設でどんな転機が訪れたか。その話の前に地球の裏側アメリカで起こっていたことを紹介します。それが日本の障害者福祉や街づくりの会の活動にも影響しているからです。

アメリカの自立生活運動の創始者と言われるエド・ロバーツ(Edward V. Roberts 1939~1995)をご存じですか?当事者運動の代表者で、それまでの障害者福祉の概念を大きく変えた人です。エドが当事者運動に乗り出した時代背景として、1960年代の公民権運動があります。黒人の人権運動で女性や少数民族の運動にも波及しましたが、そこには障害者が含まれておらず、そのことへの危機感もあったそうです。エドは四肢麻痺と呼吸器障害があり、自力で長時間の自己呼吸ができないために大型の呼吸器をつけて1日中ベッドで過ごしていましたが、1962年にカリフォルニア大学バークレー校に入学しました。

しかし当時はまだ障害者の学習環境は整っていませんでした。州のリハビリテーション局は、「一般就労が見込めない学生のために税金を使うのは無駄だから環境整備の財政補助はしない」と公言していました。だから大学は階段だらけ、トイレもバリアだらけでした。それでも彼は諦めないで学内で自分に共鳴して仲間になってくれる学生を探し、大学と交渉して、住まいも寄宿舎ではなく学内の病院に引越しました。

その活動が新聞でも取り上げられ、噂が広まり、バークレー校には多くの障害者が入学してきました。それらの学生が集まって「完全なる自助」について話し合いを重ね、州の制度をフルに使って「自立生活」ができるようにしようとしました。大学が何もしないならと自分たちで道を切り開く運動を始めたのです。障害者がどれだけ自分の人生を決めて制度的な援助を得ながら生活のクオリティをあげることができるかという課題への挑戦でした。それは、親や専門職者が障害者を保護や治療の対象にしてきた「医療モデル」の拒絶であり、「障害者の生活に何が必要かを誰よりも知っているのは医師や教師・親たちではなく、自分たちだ!」という主張でもありました。また、自分たちが求めているのは、社会生活と仕事を通じて地域に統合していくことだと主張しました。こうして従来の障害者福祉の基本概念を大きく変えていきました。「医療モデル」から「社会モデル」への転換を行ったわけです。

やがてこの運動は、視覚障害や聴覚障害にも広がりました。さらに学生以外の障害者にも広がっていって、大学を基盤にした運動では限界があるので地域に出て自立生活センター(CIL)を作る運動になりました。3年後にはエド・ロバーツは州のリハビリテーション局の局長になり、全米で自立生活センターに対する補助金制度が普及しました。その結果、CILは70年中ごろには52ヵ所だったものが12年後には300ヵ所以上まで拡大しました。こうして障害者の自己選択・自己決定の考え方が地方にも広がり、1990年には「障害を持つアメリカ人法(ADA法)」が誕生しました。「ADA法」は、「障害者の社会への完全参加」について国家責任を明確にした法律と言われ、法律上も「社会モデル」が障害者福祉の国の方針となりました。

それが世界的に波及して、日本の場合、2011年の「障害者基本法」の改正で採用され、2013年の「障害者差別解消法」にも反映されていきました。それまでは「障害者福祉の増進」という言い方だったものが、「障害のない者との平等と共生」が目的である、となりました。国連でも2008年の「障害者の権利条約」にも反映されて、ここで「インクルージョン」とか「インクルーシブな社会の実現」という言葉が出てきて、「当事者のことを当事者抜きに決めない」ということも強調されました。

しかし、社会の現実が法律に追い付いていない部分も多々ありました。例えばアメリカでは「ADA法」を根拠に起こされた雇用差別の裁判で、約90%は障害者側の敗訴になったそうです。アメリカは個人の人権を重視する一方で、自由競争社会だから「福祉の増大は、自由な競争とその結果としての格差を認めないことにつながり、自由競争を認めない社会主義的な考え方だ」ということで否定されてしまったわけです。その論争は今でも続いています。

エド・ロバーツが当事者主体の自立生活運動を始めて「ADA法」に繋がって行く時期に、新宿区では井口さんが障害者の街づくり運動に取り組んでいて、両者は連絡を取り合っていたわけではありませんが、そのあゆみや主張には多くの共通点を見ることができます。

それではふたたび舞台を日本に戻します。 (以下次号)

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